華 香 水(けこうすい)


命と心の癖揉み(くせもみ)

 大相撲の力士が結うあの髷(まげ)の大銀杏と呼ばれる髪型があります。その両耳の上から後に張り出した部分を、「ビン」と呼びます。あの大銀杏と呼ばれる髷こそ、お相撲さんの証(あか)しです。
その大銀杏の「ビン」は土俵下に落ちたとき等、頭を打ったとき、その衝撃を和らげる働きを持っています。激しい取り組みが終って、支度部屋に入ると、丁髷(ちょんまげ)と呼ばれる形に変えますが、床山さんは見栄えのする髷をつくることと共に、自分の結った大銀杏で力士が無事に土俵をつとめられることを、同じく大事にしています。
あの髷も簡単に櫛を入れてすぐ出来ません。髪は十年髷を結っても癖があり、一番最初に癖揉(くせも)みと云って、まず水桶にひたしておいたガーゼで生え際からハケ先まで水をつけて、両手で揉むことから始めます。丁髷で五分、大銀杏で最低十五分、この癖揉みをして髪の方向を真っすぐにし、ザンバラ髪を一つを二つに、二つから三つと分け、改めて揉み直す。それを充分行ない、手に引っ掛かるところもなく艶が出てきたところで、はじめて「鬢付(びんづ)け油の固まりを手の平で練り、髪につけ、癖のなくなった髪を固定し、そこではじめて櫛を使う。そして、櫛でフケや汚れを取り、形つくりに入っていきます。考えれば、お相撲さんの髪を世話する床山さんは毎日のようにこれを繰り返しているわけです。
 私達の信心においても、命と心の癖揉みが大事です。命と心の癖揉み、それが毎日の勤行唱題です。お相撲さんの髪は、日々の行いになる鬢付け油も櫛も癖揉み次第といえます。私達も同じです。
信心とは何を信じるのか。ひとつには目に見えない三世という時間とそれに具わる正しい道理とそこに生かされる命を、信じる心とも云えます。しかし、私達は現実だけに目を奪われ、折角の大聖人様の御意も自分の料簡におさめてしまいがちです。
 法華経に「五濁悪世」という経文があります。末法の衆生は本来、楽にとりつき、欲を増長し、確かな捉え方も出来ず、終には仏道修行も真に求めることなくすんでしまうと説かれています。私達も、形だけの信心に終わらぬよう、共に自戒したいものであります。



積功累徳(しゃっくるいとく)

 俗にも使われる功徳という言葉は、功を積んで徳をかさねるということであり、眼前の見返りを求めず、善根を積み重ねることです。仏法では、未来成仏を求めて、その因行となる修行を意味することは言うまでもない。しかし、現実世界にある私達は、どうしても成果を求めて、その達成に重きを置き、その過程を大事にせず、結果としての数や形、及び大小多数に囚われる。そして、本質から離れた処で、善悪の判断までをしてしまう。端から見れば、およそ信仰者の団体よりも、数を誇り国政を左右する創価学会の姿は、一言で表現できないものがある。それを批判しながら、それに負けまいとする姿が、現在の大石寺宗門に見ることが出来る。つねに登山参詣・御供養・折伏に、数の目標を打ち出し、その成果達成のためにひたすら細かくノルマを課す。正法に巡り逢ったことを日々御題目を唱える中に喜び、最後臨終まで欠かさず信心修行に精進することを大事にする。その喜びとさらなる日々精進の大事を誓い御報恩申し上げる中に、登山参詣・御供養・折伏もあるはずである。第九世日有上人仰せの「堂舎僧坊仏法にあらず、他人数も仏法にあらず、智慧才学も仏法にあらず…、信心無二にして筋目を違えず仏法修行するを仏道修行広宣流布とは云う也」の至言とは程遠い姿が現今の大石寺だと思う。
 所詮、大謗法をする者と媚びて手伝う者の姿である。世間の人は、そのような姿が大聖人様の仏法と受けとめるだろうか。「昭和三十年代の学会さんみたいになっちゃった。」とは、旧来からの法華講の人の言葉である。積功累徳はノルマで見えるものでなく、御本尊様だけが御照覧するものです。




聞思修(もんししゅう)

 動物と人間の脳の働きの違いについて、脳解剖学者の養老孟(ようろうたけし)氏は、コンピューターに例え、こんな説明をしている。物事を判断するとき、コンピューターに条件識別や式など情報が入る、次に計算思考分析する、そして判断解答するの三段階を仕組みとしたとき、おおよそ動物は第一段階から第三段階にいきなり進むが、人間は第二段階の計算思考分析し、さらに展開することに富むところが、大きな違いと述べています。何事も人間は、そこでもう一つ考えることを意味するのかもしれません。仏教一般にも聞き考え修めるの三慧というものを説きます。しかし、私達凡夫はおおよそ、煩悩がらみで聞き受けとめ、その煩悩から出発する思考により業障に振りまわされ、修める段には一時の快楽はやがて苦報に変わる様を繰り返しています。そこで大事となるのは、正しい仏法を求めて聞法し、正しい仏法に基づく思考をし、正しい仏法を正しく修行することであります。人類は地球が四十億年前に出来て以来、大きな八度の爆発があり、中でも二億五千年前の爆発は九五パーセントの生き物が絶滅した中から生き残り、命継がれて現代人があるといわれます。そして同じく人に生まれてもそれぞれに苦楽の果報が違う。そんな中で、さらに大事は正法に巡り逢い妙法を唱え、真実の智慧を起こし、一日いちにちを乗り越えて妙法受持をこそ喜びとし、三世にわたる幸せを祈りとする信心を私達はしているのです。